最新情報BLOG

【信仰心がないとされてる私が、信仰心があるとされてる人を治療したり、カウンセリングしたりしますが何か?(笑)】

【その状態のまま生きる『在り方』が大切なのです】

信仰心がないとされてる私が、信仰心があるとされてる人を、
治療したりカウンセリングしたりする訳です。
普段から勉強してる人は試験勉強は特に必要なかったり
普段から家を片付けてる人は、急なお客さんでも対応できる
普段から家系や先祖の流れを意識出来てる人は、

お盆だからと言って特に改まってする必要もない。
(あえて周りの流れに乗る事はあるけど)
既に、それが出来る準備状態にある訳です。
いや、その状態のまま生きている訳です。
だから『在り方』なのです。

最近、プロ向け講座の皆さんがそのレベルになってきました。
そろそろ私との付き合いも丸1年。
スキルではなく『在り方』が身に付くって、そう簡単ではないです。
しかし心も身体も、それが身に付けば、
基本となるベースがまるで変って俗世的な囚われが無くなってしまいます。

最近は県外からも私を狙い撃ちして訪ねて下さる方が多く
と~っても嬉しいのですが、やはり地の理があり、
単発の関わり合いになってしまいます。
カウンセリングも治療も脱力武道セラピーも、
初回の大枠をお話しする程度で終わってしまい残念です。

『在り方』と言えるレベルにするには時間が足りなすぎる。
これを打破するには・・・
やはり養成をしないと私一人の力じゃ〜限界ですね。
そして最近、養成する側のお仕事のお話しを多く頂きます。
しかし、診てる患者さんを減らさないと、養成する時間が取れない・・・

でもやるしかないですね~
私のこの世でのポジション変更します(笑)

【子供にとっての「神」とは?】

自分の力が及ばない大きな力や、
命を握られてるものを神とするならば、
アダルトチルドレンにとって毒親も当時は神であったと思います。
親に食事を与えてもらわなければ死ぬわけですからね。
その続きで、

昔は自分の会社の社長が神だった時代もあった。
その仕事が地域に根差したもの、地域の自然環境を守る事で、
存在できるものであったなら、地域の神に生かされていたのだと思います。
だから原始的な民族は自然崇拝していますね。
当たり前の事です。

自己一致した信仰と言えます。
今、自分にとって必要な神なのか?
自分の身の丈にあった神なのか?
ここを認識せずしてご利益なし(笑)
ご自身にとって、今1番『神』として納得がいく、

身近なものを敬ってみて下さい。
それが自分であっても構わない!
トランスパーソナル心理学では、一切の神を否定し、
自分のみを信じる時期があるとしています。
それも必要な時期です。

私は家族と絶縁した最悪期を乗り越える時、
間違いなく妻が神でした(笑)
その時に、今住んでる地域の神様に祈ってもお門違いというもんです。

【2022年8月の投稿から・・・】

2022年8月、京都往診旅行から帰宅しましての、この過去投稿。
思う所が沢山ありますねw
今回の旅行で会う人達は、けっこう信仰深い人が多かったんですよ。
でもね!上記の投稿の様な(私の母の様な)浅いレベルではない方達です。
無宗教どころか宗教や信仰、

聖職者を揶揄する事も多い私を呼んで泊めて下さる器の人達ですからね(笑)
なんちゃって信仰家であるはずがないのです。
で、お話を伺うと
私の言葉で言えば、やはり信仰などしていないw
厳密に言うと、信じて、仰ぐ、事などしていない。

『自分の人生経験からの神仰(しんこう)』
だから語る言葉が、その人から出ている。
※今、この『神仰(しんこう)』という言葉、作りましたw
私もそうですが、誰かの言葉を借りて、
それっぽく振舞うのは嫌いなんです

(てっ言うか、そんなの自己不一致の信仰とも言えない信仰ですよ)
それにせっかくお会いして、誰か他人の言葉を語られたら、私は帰りますよ!
※失礼なんで帰りはしません(笑)
その人と会ってる意味ないですからw
自己不一致の一般的信仰が『信仰』であり

自分の人生経験から体験した『神性』を言葉に出来る人が、
私の思う所の『神仰(しんこう)』なのかもしれません。
誰か、自分以外の対象を信じる『信仰』ではなく
自分の中の自己一致した神聖なる部分を大切に扱い、
それを『神仰(しんこう)』して生きていらっしゃる。

このような神仰ならば、それは自分自身であり、
誰かに依存する事もなく騙されることもない。
裏切られる恐れや不安もない。
自己一致した自分そのものを神としているのですから!

【祈りの本質を考えてみる】

祈りの本質って何だろう。
私みたいに全く祈らなくても何の問題もない人もいる訳でw
やるべきことをやらないで祈るんだったら、やるべきことをやりましょう!
という話にもなりますがw
それでもやるべきことをやった後に、祈りたい心境もありますよね。

そうすると「祈りの本質って何だろう」とも考えたくなります。
それを含めても私はあまり祈ってないような・・
もしかしたら、私のプロ向け講座の受講生達は
「祈り」が残念ながら叶わなかった場合の、
治療的ダブルバインドの準備を始めるか、

マインドフルネス的な・・・
どのような結果も受け入れる受容モードへ入る準備をするもしれません(笑)
祈ったその後の世界もありますからね。
そう考えると、祈りの本質は
大きく分けて3つですかね。

①神と繋がり何かを願う行為(嘆願・執成・祈祷・祈願)
②神の意志を(自然の摂理を)一方的に受け入れる為の行為(賛美、悔改、畏敬)
③人や動物など命をなくしたものや、役目を終えた後の慰霊や感謝

あっ!こんな私でも③は祈りますねw
ただ坊さんなどの人に頼む事はありませんけどね。
仲介する人が、自分よりも分かってないって、仲介の意味果たしませんからw
むしろ誤解して伝わるわ!w

【外の神と内の神とは?その視点から見た統合とは?】

外の神は依存して支配される事になりやすい。
ただ外部との交流はあるので社会性は保たれる。
内の神は逃避や自己満足になりやすい。
病的に進めば外部との関係は絶たれ社会性も失う。
メリットデメリットがある。

ただレベルが上がれば
外の神を信仰しながらも自己一致し社会性も失わず、
神を使いこなす側になる人もいる(言い方悪いけど)⇒覚醒
内の神も、逃避や自己満足のレベルではなく、
内なる真実の探求として自己に向き合い、それを社会に活かす人もいる⇒悟り

外の神、内の神。
双方は矛盾するようでいて、両方の状態は可能。
いや、対になっている。
統合できていなくて、浅いレベルでの信仰では、
どちらを実践しようが、苦しくなるでしょうね。
to top